リメイクすると言いながら一向に進展しない体たらくなハリウッドに嫌気がさしたのか、舞台化に続いて今度はドラマ化された『デスノート』を観る。
ネット上では微妙な設定改変に放送前から非難轟々でしたが、個人的には原作があって、アニメ化して、実写映画もやったのだから、今さらそれと同じ展開やったって詰まらんので、むしろ改変してくれたというのは大きな視聴理由となりました。
開始早々、安っぽいアイドルとやる気のないオタによるコンサートシーンから幕を開けたのですが、ライト自身がドルオタというよりは友人の付き合いで見に行ってる感じがしますね。
ミサミサには興味があるようですが、部屋にポスターとか貼ってなくて一安心(笑)。
んで「天才」という原作設定から「頭が良い」程度に格下げされたライトの知能に関しては、ぶっちゃけこれくらいの方が共感できてよくないですか?。
原作はジャンプマンガという事もあり浮世離れしすぎて実写にすると違和感の方が大きかったのですが、デスノートを使った事で自殺を試みるまで精神的に追い詰められるなど、より人間臭くなっていて私は好きです。
特に野心などが無い平凡な青年がデスノートを手にした事で変わっていく過程も丁寧に描いており、原作だと省略していた部分をフォローしていたのも好感触。
第二の殺人が父親を救う為に偶発的に起こってしまうのは上手いアレンジですし、母親がすでに他界しているというのもライトの行動に説得力を持たせている。
彼自身の正義感と共に時代を反映してSNSなどによるネット上の声援を糧としているのも興味深い。
一方ライバルとなるLは衣裳がむしろニアに近いイメージとなり、お菓子ではなくウィダーインゼリーやカロリーメイトを好んで食し、髭男爵のファン(実は一番衝撃的)であること以外大きな変化はないように思えたのですが、喋り方なんかはもうちょい特徴付けても良かったかな?。
(しかしこの段階で魅上照まで出してきたのには驚いた)
ただ前回の実写映画の時も思いましたが肝心の「デスノート」が綺麗すぎやしませんか?。
原作通りと言えばそれまでなのですが、あの見てくれのリュークの所持品なのに何であんな新同品なのか?。
それにライトが書く犯罪者の名前がデカいのなんの…。
藤原ライトもそうでしたが、最初の殺人はともかく使い続けるつもりなら先の事を考えてもっと詰めて書くだろ?。
例えばこれが『セブン』のジョン・ドゥのノートみたく綺麗な字でビッシリ名前が書かれていたらそれだけで「ゾッ」とするはず。
どうしてそういう細かな部分でキャラクターを表現できないのか?。
それ以外にも、死んだ人間が兄貴の携帯を所持していても平気な妹とか、職質した警察官がナイフ持った凶悪犯に何の抵抗もなく刺されたりとか、父親のピンチにノートのおさらいをするライトとか、殴られても微動だにしない夜神父の不動のメガネとか、スムーズすぎる同時通訳などなど、稚拙な描写が散見するもののテレビドラマである事を考えれば私は十分に楽しめました。
でもコスプレにしか見えない「ニア」だけはちょっと…。
「メロ」が人形で一人二役的な扱いのようですが正直浮き過ぎでしょ?。